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ニッケイ料理の一つと言われているティラディート(Tiradito)東京・原宿にあるペルー料理店Bépocah(ベポカ)にて

ニッケイ料理はペルー料理の一種

ペルー料理を食べていると、ニッケイ料理というものに出会うことがあるかもしれない。実は日本のペルー料理店などでもメニューの中に紛れ込んでいたりする。ニッケイ料理とはペルー料理の一種であり、日本ではペルー料理として提供されているからほとんど気づかれない存在でもあるのだ。

ペルーには中国人ルーツのチファ(CHIFA)というジャンルの料理があるが、このチファもまたペルー料理の一種として提供されているため、日本でもあまりチファとしては知られていない。

↓チファについてはこちらでも紹介しています↓

ところが近年になって、ペルーが美食の国として知られるようになり「ニッケイ・フュージョン料理」というものが欧米の人たちの間でグルメ料理として注目されるようになってきている。

このニッケイ・フュージョン料理とニッケイ料理には、実は微妙なニュアンスの違いがある。さらには「日系食」というものまで存在し、これらの関係を見ていくと、ニッケイ料理には昔ペルーへ渡った日本人移民との関係が深く関わっていることがわかってくるのだ。

ペルー日系人社会の始まり

日本人のペルー移住120周年記念に発行された切手 (出典:Revista Kaikan 2020 Marzo)

ペルーへの日本人の移住は、1899年に移民船「佐倉丸」がリマ沿岸部のカジャオ港に入港したことから始まる。

契約移民として農園で働き、お金をためて日本へ帰国するつもりでやってきたいわゆる出稼ぎだったが、中には契約終了後も帰国せずにペルーへ残る人たちも。そのような多くの人たちは後に農園のある地方からリマへと移り住んでいく。さらには日本の家族や親戚をペルーへ呼び寄せるなどの「呼び寄せ移民」も増え続け、日本人コミュニティが広がっていったのだ。そのようにしてリマの日系人社会が始まった。

リマに住む日系一世たちの中には、現地の人向けにペルー料理を提供するお店を経営するなどして生計を立てている人もいた。日本料理店ではなくペルー料理店であるところが面白い。では日本食はというと、日本食はペルー社会に出ることはなく、家庭内や日本人社会の中に留まっていたのだという。

日系食の誕生

やがて二世たちが誕生し、その家庭内で出される料理はあくまで「和食」であった。しかしペルーでの生活に馴染んできたこの頃にもなると、家庭内での和食にも現地の食材や味覚の要素などが自然と混ざるようになり、食事にも変化が出てくる。意識的には和食を調理していたにもかかわらず、それらの料理がペルー風へと化してきていたのだ。このような変化を遂げた料理は「日系食(コミーダニッケイ Comida Nikkei)」と呼ばれている。

日系食(コミーダ・ニッケイ Comida Nikkei)とは
ペルー風に変化を遂げているという意識はないまま、家庭内の和食として出されていた料理

日系食(コミーダニッケイ Comida Nikkei)

日系人家庭でいただいた料理。八宝菜の味そのものでした。

私自身もペルーへ行った時には、日系二世・三世の家庭に滞在していたが、その家庭内で出された料理は日本料理でありながら、食材や調味料がペルーのものであって、日本で食べる和食とはどこか違う、懐かしさを感じる料理だなと思っていた。こういったものがおそらく「日系食」にあたるのだと思う。

ニッケイ料理の誕生

戦後生まれの日系人たちに中に、家庭の中で出される和食(日系食)を創作風にアレンジした女性がいた。日系二世であるロシータ・ジムラは「ニッケイ料理」のパイオニアとして現在でも名を馳せている。彼女の代表作とも言われる「プルポ・アル・オリーボ(タコのオリーブ風クリームソースがけ)」はニッケイ料理のひとつと言われている。

ロシータは自宅を改装して小さなレストランをやっていた。そこで振る舞われた彼女のアイデア料理は、それを食したペルー人の美食家たちの目に留まり評価され、「ニッケイ料理(コシーナ・ニッケイ Cocina Nikeki)」と名付けられてペルー社会へ飛び出ることとなったのだ。 

ここではロシータの例を取り上げているが、他にもウンベルト・サトウミノル・クニガミといった料理人達もニッケイ料理のパイオニアとして知られている。

ニッケイ料理(コシーナ・ニッケイ Cocina Nikkei)とは
創作風にアレンジされた日系食が、ペルー社会へと向けて名付けられた料理

ニッケイ料理(コシーナニッケイ Cocina Nikkei)

世界へ飛び出したニッケイ・フュージョン料理

1990年中頃になると、もうすでに三世たちも誕生し、この頃を皮切りに多くの人たちが出稼ぎとしてペルーから日本へ渡っている。

かつての一世たちは子供たちの教育に涙ぐましい犠牲を払ったという。その結果、医者や技術者などの専門職を得る二世たちが育つようになり、ペルーにおける日系社会は確実に社会的、経済的に上昇を遂げていた。フジモリ政権が誕生したのもこの時代であった。

そのような時代を経て、比較的恵まれた環境で育ってきた三世たちの中には将来の職業として板前を選ぶ人も多かったそうだ。こういった背景の中から育っていったのがディエゴ・オカや、ツムラ・ミツハルハジメ・カスガなどであり、現在のニッケイ・フュージョン料理界を担うシェフたちの代表的な存在となっているのだ。

彼ら三世のシェフたちは板前としての自分たちの料理を、ペルー料理の多様性の一つとして「ニッケイ・フュージョン料理(Cocina Nikkei Fusión)という新しいジャンルとしてたちあげ、舞台をペルーから世界へと広げていった。中でもツムラ・ミツハル氏が手掛けるレストラン「Maido」世界のベストレストラン50」で10位にランクイン(2019年)するなどの華々しい結果をおさめ、このとがきっかけの一つとなり、ニッケイ・フュージョン料理が世のグルメたちに注目されるようになっていったのである。

※2023年、Maidoは世界のベストレストラン50」の6位に選ばれています!

The World's 50 Best Restaurants

↓レストラン「Maido」のコース料理はこちらで紹介しています↓

デカセギ陣から生まれたニッケイ・フュージョン料理

いっぽう、80~90年代にかけてデカセギとして日本へ移住し、長年の滞在経験で食した日本の大衆グルメをペルーで展開しようと、帰国後にお店をオープンする人たちも続々と増えている。ラーメンや餃子、丼ものなどをペルー風にアレンジしたこれらの料理もまた、ニッケイ・フュージョン料理のひとつと言われている。

こんにちペルーの街中などでよく見かける日本風のレストランは、概ねこのような比較的コスパがよく、たっぷりとお腹も満たしてくれるような大衆料理を提供する、もう一つのニッケイ・フュージョン料理レストランと言えるであろう。

ニッケイ・フュージョン料理(Cocina Nikkei Fusión)とは
・日系二世・三世世代のシェフ達によりペルーから世界へ向けて発信されたニュージャンルのニッケイ料理
・日本への出稼ぎを経験した日系人たちが日本の大衆料理をペルー風にアレンジし、ペルーで展開している料理

ニッケイ・フュージョン料理(Cocina Nikkei Fusión)
chupe-ramen

左:ラーメンとペルー料理のチュペが融合したチュペ・ラーメン(Chupe Ramen)ミラフローレスにあるShizenにて 右:セビチェ風味の巻き寿司(Maki Acebichado)ヘスス•マリア地区にあるShimayaにて

ニッケイ料理?それともニッケイ・フュージョン料理?

これまでに「日系食」「ニッケイ料理」「ニッケイ・フュージョン料理」の3種の違いについて述べてきた。この3つの呼び名を使い分けるのは非常に難しく、当ブログでも表現について迷うことが多くある。

実際のところ、こんにちではペルーでもニッケイ・フュージョン料理を出すレストランが多いので、具体的な料理やレストランを指す時には「ニッケイ・フュージョン料理」と呼ぶのが妥当かなと思っている。しかしながらニッケイ・フュージョン料理として表現するにはちょっと違うな、と感じる場合には、総称して「ニッケイ料理」と呼んでいる。

移民たちの思いが込められたニッケイ・フュージョン料理

日本料理と外国の料理が融合していればなんでも「ニッケイ料理」になるというのは言い難いが、一方どんな和食とペルー料理とが融合してもニッケイ料理と言えるのも「ニッケイ・フュージョン料理」でもある。

しかし、どのようなアイデア料理であれペルーのニッケイ・フュージョン料理とは、ペルーへ渡った日本人たちが故郷を思い、あるいは故郷を諦め、遠い異国の地で逆境を乗り越え生きぬいてきた、そういった人々の人生からもたらされたものであり、一方、日本へのデカセギを経験したペルーの人たちの想う日本との絆や、魂のこもった様々な背景から生まれるペルー料理の一種であり、それを作る料理人たちも(日系、非日系問わず)その敬意を忘れてはいないということだと私は思う。

リマのラ・ウニオン運動場で行われている日系人の祭り。ペルーの日系人は情熱的!

【参考書籍・資料(写真)】

ペルーの和食 やわらかな多文化主義・・・柳田利夫(慶應義塾大学出版会)

Kaikan, Asociación peruano japonesa(APJ ペルー日系人協会)

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